多禰寺の主な文化財
薬師如来坐像 (秘仏本尊)
【製作年代】鎌倉時代
【像高】 台座・光背を含め115センチ 本体は52センチ
【特徴】院派による優れた作風の傑作である。光背は切金で“宝相華唐草文”を透かし彫りした優美なものである。秘仏のため保存状態が特に良い。舞鶴市の指定文化財。
金剛力士像 重要文化財
【製作年代】
鎌倉時代初期。運慶作の伝承が残るが、解体修理の際に銘は見つけることができなかった。
【像高】
阿形 358センチ 吽形 355,5センチ
東大寺南大門の仁王像(像高8メートル)についで4メートル弱の金剛力士像が全国に数体現存しており、多禰寺の金剛力士像もその一体である。全国で3位であろうか。
【幻の仁王門】
現存する仁王門は1840年頃のものと思われるが、収蔵されていた金剛力士像の体躯が閊(つか)えるほどの大きさである。また部材の中にかなり古いものもあることから、かってはさらに大きな仁王門がいずれれかに建立されており。それらが失われた後に残った部材を使って、現存する仁王門が建てられたのではないかと考えている。
仁王門といえば思い出されるのは京都府北部屈指に文化財でる綾部の光明寺仁王門である。
光明寺は真言宗醍醐派の古刹で開創は聖徳太子と伝えられる。多禰寺の開基が聖徳太子の異母弟である麻呂子親王であることを連想させる。かっては光明寺のような巨大な山門があったのだろうか。
そもそもなぜ山門をこのように巨大に作る必要があったのかこれは大変に興味深い問題である。
山門(仁王門)にどのような役割や信仰があったのか…興味は尽きない。
普賢菩薩騎象像
【製作年代】平安時代
【像高】総高 77,5センチ(蓮台、象を含む)
平安時代には『法華経』のの「普賢菩薩勧発本(かんぽつぼん)」によって盛んに信仰された。仏教においては珍しく女人往生を説くところから普賢菩薩の仏画、仏像は女性の護持仏とされることが多かった。
【普賢菩薩信仰】
舞鶴唯一の国宝は松尾寺所蔵の「絹本著色普賢延命像」である。
平安時代の普賢菩薩像は希少であることに加えて、松尾寺の仏画との関連性が注目されるところである。当地において普賢信仰に特別のものがあったのかもしれない。
【多禰寺本堂】 1840年建立。京都府指定文化財。
本堂彫江戸時代後期から昭和初期に活躍した彫刻師に丹波柏原の中井家があります。中井権次(ごんじ)を襲名して、多くの彫刻を但馬・丹波・丹後に残しました。
【見どころ】
〇 龍 本堂正面 欅(けやき)の一木造り。豪快かつ繊細な造形であり龍の表情、ウロコ、背びれなど細部にいたるまで意匠が込められている。現在の私たちが3Dの映像を楽しむようにこうした彫刻が競ってつくられたのだろう。本堂の最も目立つ位置にあり。また彫刻師の技量の見せどころでもあった。
龍は仏法を守護する霊獣である。また天候をつかさどり雨を呼ぶことから火難除けの意味があると考えられる。
〇獅子 左右の柱に彫られている。仏教では獅子(ライオン)も霊獣である。右が開口、左が閉口の阿吽の形をとる。風化していて判別しにくいが獅子の瞳が参拝者を見合わすように作られている。
〇象 左右柱の側面、獅子と同じく左右で阿吽の形をなす。象の眼は本堂内陣側のみに彫られており参拝を終えて階段を降りんとする参拝者と眼が合うように意匠がこらされている。
獅子は文殊菩薩の乗り物であり、像は普賢菩薩の乗り物である。『華厳経』のなかに最初に文殊菩薩に会い、最後に普賢菩薩に合って教えを受ける善財童子の逸話がある。
参拝前に獅子を見、参拝後に像を見るとはその意味であるかもしれない。
本堂 内陣
【本堂内陣】
〇 不動明王 毘沙門天 日光菩薩 月光菩薩、十二神将、弘法大師坐像など
〇 『飛鳥の柱』 「萩の柱」とも言われる。本堂建立は江戸時代であるが本尊右横の柱は飛鳥時代創建当初のものであるとされる。創建時に当地の霊木を切って柱となしたという。さわるとご利益があるとされる。本堂内拝観希望の方は寺務所まで。
仁王殿 拝観料500円 寺務所にお申込み下さい
主な仏像は以下のとおり
【金剛力士像】 鎌倉時代。国の重要文化財。像高は約4メートル。かっては山門に安置されていた。国内の金剛力士像のなかでも屈指の巨像である。作者は慶派の仏師と推定される。慶派の仏師定慶という説もある。寺伝では運慶作。
【大日如来】
製作年代不詳。真言宗の本尊であり、宇宙の中心にあって世界を遍く照らし出す存在である。
【不動明王】 剣を持ち、火炎を背負う。剣で悩みを断ち切り、炎で衆生の煩悩を焼き尽くすとされる。平安時代作。穏やかな表情で微笑みを浮かべているように見える。
【普賢菩薩】 像に乗った仏様。智慧を司り、また女性の往生を助けるとされる。平安時代に作られた国内でも希少な仏像である。市指定文化財。
他に諸仏什器などを収蔵